発達障碍とカウンセリング
広汎性発達障碍 アスペルガー症候群


わたしの尊敬する故・石井哲夫先生は、
長年の深い療育(りよういく)と福祉の経験から、このように記しています。

自閉症、発達障害という「生きにくさ」をかかえている人に対して関わっていくうちに、実は、その支援者自身の自己確立が問われていることが、わかってくる。さまざまな問題を持ちかけられた時に、私たちがその人たちより有能で、解決の道をいつも助言できるかと言えば、まず不可能な場合ばかりである。
自らを振り返ってみると、とにかく「 理解するためにかかわる 」「 かかわりながら理解してゆく 」ことを、目指すのがよいと思っている。

実際に自閉症などの発達障害をもつ子どもたちや親御さんが、一番困っているのは、上手に相手になってくれる人がいないことである。
上手な相手とは、子どもたちや親御さんを理解するために、自分自身を調整できる人のことである。自閉症の人には、外見では見分けられない内面の難しさがある。とくに高機能自閉症の人たちは、会話ができるし、いろいろな認知能力が発達している。そのような人がなぜ障害なのか、と疑問をもたれるときがある。
このような人たちと関わろうとするなら、おかしなことを言われても、その意味を知るように務め、ていねいにこちらの意図について説明することが必要である。
笑いものにしたり、叱ったりするのではなく、本人に分かるような説明ができるかどうかが、重要である。

( 自閉症・発達障害のある人たちへの療育 )

 

以下の文章はいま(2012年)から数年前に、
ご相談にいらした親御さんに頼まれて、
お子さんが通う小学校の先生に、わたしから書いてお送りしたものの一部です。

少しでも、■■くんと担任の先生との関係のサポートとなるように、と願って書いたものでした


殻のない薄い膜だけのゆで卵たち

 ●●さんのご両親、そして■■くんに数回お会いし、お話をうかがってのわたしの印象を、拙いものですが、お送りしてみました。
 立場を省みずに、こうした文章を差し上げましたのも、●●さんのご両親と学校とのなにかの橋渡しのお役に立てれば、という思いからです。そこをお汲み取りいただきたく、宜しくお願い申し上げます。

 私見ですが、わたしには■■くんが、もしかすると軽度な発達障碍を持つ子(人)と似通った苦労を抱えている子ども、ではないかと感じています。とても敏感な感覚と神経を持って生まれた子どもではないでしょうか。
 ここで申し上げる「 敏感さ 」というのは、わたしたちが普通に想像する敏感さとは、少し質の違うところがあります。

 たとえば、「 ゆで卵 」をイメージしていただくとよいかも知れません。わたしたちが「 殻の付いたゆで卵 」だとすると、■■くんは「 殻のない薄い膜だけのゆで卵 」だとイメージしてみると、いかがでしょう。

「 殻のついたゆで卵 」であるわたしたちは、中身の黄身や白身は、殻によって守られています。でも、「 薄膜だけのゆで卵 」は、薄い膜だけで外界と接していかなくてはなりません。
 もしかすると、殻の付いたゆで卵であるわたしたちには、薄い膜だけのゆで卵たちの苦労を、本当には分からないかもしれません。でも想像してあげることは出来るはずです。

 発達障害はご存じのように、いまはスペクトラム、つまりグラデーションのようなもの、と考えられています。人は誰もが発達の凸凹を抱えているものですし、誰しも得意不得意があるものです。
 つまり右端の白色から、左端の黒色までのあいだに、無限のグレーの階調がつらなっている。その中のどこかに、わたしたちの誰もが当てはまることになります。誰もが発達障害です。しかし、やはりグレーの色の濃さの違いというものはあるものです。

「 殻のない薄膜だけのゆで卵 」である子たちにとっては、殻付きの私たちにとってはやり過ごせるような状況や場でも、ひどく侵襲的で不安惹起的に感受することになります。
 侵襲的、不安惹起的とは、ことばを換えると、「 こわい 」「 おそろしい 」ということでもあります。それは「 安心感を得にくい 」ということにもつながります。彼らが時折見せる「 こだわり 」や気に入った物への「 執着 」も、感覚的な安心感を求めて、という場合のときがあります。

 侵襲的、ひどく不安惹起的な状況に直面したときなど、たとえば他のことを( 自分の好きなことなど )頭の中で一生懸命に考えることに集中する、自分のクセに没頭する等々のように、何かに感覚を集中させることで、その子にとって侵襲的で不安惹起的な場面を遮断し回避している場合が在ります。逆にそれによって、わたしたちと同じ場にいることを可能にしているわけです。

 頭ごなしの強制は、「 薄い膜だけのゆで卵 」である彼を、自分だけの唯一安心できる感覚世界へ追いやり、わたしたちの社会から遠ざけてしまう場合もあります。
 そういう意味で申し上げると、学校の先生方にとっては、ご苦労の多い子どもたちかも知れません。しかも、こうした、彼らの持って生まれたところからやむを得ず生じてくる行動なり振る舞が、「 性格 」として誤ってとらえられてしまうこともあります。

 特に大事なところ、肝心な場面では、根気よく、粘り強く、説いてきかせ、云ってきかせて、やってみせて ・ ・ ・ ・ ということが、■■くんのような子どもたちには、大切になるように思います。
 もちろん、すぐには「 わかりました 」とはならないでしょう。でも、いまは分かってもらえなくても、一年後、二年後、もしかしたら五年後に、きっと実るはずだと信じて、大事なところでは、根気よく、粘り強く、説いてきかせ、云ってきかせ、やってみせて、を続けてゆくことが大切かもしれません。
 と同時に、彼の感覚面にすぐれた特徴や持ち味を、なにかの形で生かしてあげられたら、とても素晴らしいと思っています。


・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

自閉症、発達障碍と呼ばれる子・人たちの
最も中心( 中核 )にある難しさとは、育ちのうえで、
人との情緒的な交流の面で本質的な難しさがある 」ことと、考えられています。
 

それは、赤ちゃんからの育ち・発達の成り立ちを考えれば、
容易に理解できるものです。

なぜなら、わたしたちは誕生して以降、「 人( この場合養育者 )との情緒交流や関係性 」の中で、言葉や非言語的なもの、その他たくさんの事を身につけ、吸収し、理解しながら成長してゆく存在だからです。

人との情緒な交流、情緒的な関係性というものが、
大切な見えない基盤となって、絆となって、
その上に、さまざまなものが築かれてゆきます。

共有されてゆくことになる、と考えられています。

そこに、独得で本質的な困難を抱えている、ということは
その困難さの大小の程度によって、
さまざまな生きづらさ、不安を抱えなくてはならない、ということを意味しているのです。


学業の面でとても成績のよい子などは、
そうした学習面の成績の良さに支えられて、学校時代はやってこれても、社会( 就労の場面で )へ出ていったときに、大きく躓くようなケースも見られます。

学習面で彼らなりのブライドが保証されている間は、比較的問題も起こらないが、それが破綻した際には深刻な状態を示すことはけっして少なくない。
 アスペルガーの人々も、自閉症圏の人々と同様に他者との共感的交流が困難であることを考えると、乳幼時期に言語認知発達の面のみに目を奪われることなく、彼らの情緒的な側面を配慮した上での心理療法的な働きかけが特に望まれる
」 
小林隆児( アスペルガー症候群 )
 

 この前、ボクのところに来た心理士がいて、知能検査のデータだけボクに見せて、「 ちょっと相談があるんですよ 」って。「 この検査のデコボコを見て、やっぱり発達障碍ですよね、やっぱりどっかおかしいですよね 」とか、そういう感じで言うわけですね。
 結局、発達障碍っていうと、脳になんらかの問題があって、こうなって、それで知能もこういうバランスのおかしさが出てくるんだって考えなのね。本当にひどいもんですよ。現在の子どもの能力と脳が直結してしまい、そのプロセスは何も見えない。これは悲惨な状況ですよ。

( 小林隆児 児童精神科医・心理療法 )


 
精神医学の仕事が、ただ分類しネーミングするだけだというなら、それは何か特殊な精神医学であって、本来あるべき臨床ではない。
 大切なことは患者の背景・歴史をよく知り、そしてその人をよく理解し、そして患者と一緒に苦悩し、考え、何かを共に作ってゆくことである。きれいごとではない。

( 小倉 清 児童精神科医 )


カウンセリングにしても、
発達障碍があろうとなかろうと、自閉症であろうとなかろうと、
その子・その人をいかに理解し、一緒に考えてゆくか、ということが本質的に最も大切なことのように思っています。

しかも、自閉症とか発達障碍とひとくくりにしてみても、
当たり前のことですが、
その子ども・その方ごとに一人ひとり、本当はみな違います。

 


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わたしが、自閉症の子どもたちに
具体的に関心を持つようになった時期は、
カウンセリングに関心を持つようになった頃と重なり合います。

それは1995年頃のことです。

わたしが具体的な関心を持ち始めた時期というのは、
いまから振り返ると、自閉症や発達障碍の子どもたちへの、本当の意味での療育と臨床が花開きはじめていた、とても幸運な時期だったと思います。

田中恒夫、石井哲夫、小林隆児、こうした方たちの療育や臨床、研究との出会いは、わたしのカウンセリング観を支えているものでもあります。

しかし、その頃は、自閉症や発達障碍の子ども・人たちは、
福祉制度の枠外に置かれたような状態で、
親御さんたち、療育に携わる人たちが国に対して長年働きかけを行なっているときでした。

その後、支援法が制定され、各都道府県に発達障碍者支援センターが設置されたり、特別支援の取り組みがされるようになって、「 自閉症 」「 発達障害 」「 アスペルガー 」という言葉が、世の中に浸透するようになりました。

しかし、いまだ自閉症や発達障碍が、人々に理解されているとは云い難い状態です。親御さんのご苦労もあります。
もちろん、わたし自身、カウンセリングの場では、手探りでかかわっている、というのが本当のところです。
 


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ドナ・ウィリアムズから、1994年に都内でおこなわれた「 自閉症実践療育セミナー 」のために送られたメッセージがあります。

ドナ・ウィリアムズはご存じのように、
「 自閉症だった私へ( 邦題 )」を出版し、はじめて自閉症者の内面を、自閉症者みずからの手で綴った女性です。


ドナ・ウィリアムズからのメッセージ

・ ・ ・ 自閉症者の成長を願ってこちらが向かっていったとしても、まず最初に、必ずシッペ返しをくらいます。非常に頑固な抵抗にあうのです。成長することは苦しいことだから、です。発達上のさまざまな乱れを抱えながら、おびえながら生きている人間にとっては、なおさらです。
 彼らはそもそも、人に安らぎを覚えられないだけでなく、自分自身のなかにさえ、そうしたものを見出せないのです。

 ではどうしたらよいのか。わたしは「 誘う 」というやり方がいいのではないかと思います。「 誘う 」ことがうまくいかないなら、励ますのがいいと、わたしは思います。でもその場合は、自閉症者を断崖の上に引っ張っていくのだと、覚悟して欲しいのです。そして、その断崖の光景を充分に想像して欲しいのです。

 目のくらむような谷底は、たとえあなたには見えなくても、自閉症者にははっきりと見えているのですから。だから、もしあなたがただ優しく「・ ・ ・ ・してね(please)」と言うだけなら、自閉症者は決してあなたに連いては行かないでしょう。よそ見をしたり騒いだり、暴れたりするだけで、あなたのことを見ようともせず、まして、谷底を飛び越えようとはしないでしょう。

 わたしの言う励ましとは、粘り強い、断固とした励ましです。たとえ自分には見えなくても、そこに谷底が口をあけていることを知っていると、伝えることです。そして自閉症者の世界に、こちらから入ってゆこうと試みることです。わたしは頑張っているのだから、あなたはわたしを信頼して大丈夫なのよ、と伝えるのです。
 本人にしか見えない谷底を、本人が自分で飛び越えられると思うことが出来るようになるまで、勇気づけ続けるのです。

 強制するというやり方は、わたしはあまり賛成できません。実際には何も変っていないのに、あたかも成長したり克服したかのような「 ふり 」を、させるだけですらか。それはちょうど、谷底を飛び越えてはいないのに、飛び越えたふりをするのと同じです。
 強制的になにかに従わされた場合、自閉症者は、自分がばらばらに壊れてしまったかのように、あるいは死んでしまったかのように感じるからです
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軽度な発達障害を持つ人たちの多くは
とても分かりづらいために、

生まれ持っての気質を周囲の人たちから理解されず、
幼い頃から、通常の保育 ・ 学校教育のなかに適応することを
常に強いられてきた子(人)たちです。

ことに( テストの善し悪しは別にして )知的な面での遅れのない子たちは、先生やクラスメートから、時折なんなんだろう、と不思議に思われることはあっても、そのまま流されてしまうことになります。


ただ、ひとりだけ、お母さんだけは、
「 この子はなにか違うんじゃないかって、ずっと感じてきたんです 」
そうおっしゃいます。

そのため、不安になって、担任の先生や学校に相談したり、
教育相談に足を運んでみたりされますが、
たいていは、思い過ごしです、大丈夫です、と云われてしまうことが多いようです。


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