発達障碍とカウンセリング
自閉症、発達障害という「生きにくさ」をかかえている人に対して関わっていくうちに、実は、その支援者自身の自己確立が問われていることが、わかってくる。さまざまな問題を持ちかけられた時に、私たちがその人たちより有能で、解決の道をいつも助言できるかと言えば、まず不可能な場合ばかりである。 実際に自閉症などの発達障害をもつ子どもたちや親御さんが、一番困っているのは、上手に相手になってくれる人がいないことである。
以下の文章はいま(2012年)から数年前に、 少しでも、■■くんと担任の先生との関係のサポートとなるように、と願って書いたものでした
●●さんのご両親、そして■■くんに数回お会いし、お話をうかがってのわたしの印象を、拙いものですが、お送りしてみました。 私見ですが、わたしには■■くんが、もしかすると軽度な発達障碍を持つ子(人)と似通った苦労を抱えている子ども、ではないかと感じています。とても敏感な感覚と神経を持って生まれた子どもではないでしょうか。 たとえば、「 ゆで卵 」をイメージしていただくとよいかも知れません。わたしたちが「 殻の付いたゆで卵 」だとすると、■■くんは「 殻のない薄い膜だけのゆで卵 」だとイメージしてみると、いかがでしょう。 「 殻のついたゆで卵 」であるわたしたちは、中身の黄身や白身は、殻によって守られています。でも、「 薄膜だけのゆで卵 」は、薄い膜だけで外界と接していかなくてはなりません。 発達障害はご存じのように、いまはスペクトラム、つまりグラデーションのようなもの、と考えられています。人は誰もが発達の凸凹を抱えているものですし、誰しも得意不得意があるものです。 「 殻のない薄膜だけのゆで卵 」である子たちにとっては、殻付きの私たちにとってはやり過ごせるような状況や場でも、ひどく侵襲的で不安惹起的に感受することになります。 侵襲的、ひどく不安惹起的な状況に直面したときなど、たとえば他のことを( 自分の好きなことなど )頭の中で一生懸命に考えることに集中する、自分のクセに没頭する等々のように、何かに感覚を集中させることで、その子にとって侵襲的で不安惹起的な場面を遮断し回避している場合が在ります。逆にそれによって、わたしたちと同じ場にいることを可能にしているわけです。 頭ごなしの強制は、「 薄い膜だけのゆで卵 」である彼を、自分だけの唯一安心できる感覚世界へ追いやり、わたしたちの社会から遠ざけてしまう場合もあります。 特に大事なところ、肝心な場面では、根気よく、粘り強く、説いてきかせ、云ってきかせて、やってみせて ・ ・ ・ ・ ということが、■■くんのような子どもたちには、大切になるように思います。
自閉症、発達障碍と呼ばれる子・人たちの それは、赤ちゃんからの育ち・発達の成り立ちを考えれば、 なぜなら、わたしたちは誕生して以降、「 人( この場合養育者 )との情緒交流や関係性 」の中で、言葉や非言語的なもの、その他たくさんの事を身につけ、吸収し、理解しながら成長してゆく存在だからです。 人との情緒な交流、情緒的な関係性というものが、 共有されてゆくことになる、と考えられています。 そこに、独得で本質的な困難を抱えている、ということは
「 学習面で彼らなりのブライドが保証されている間は、比較的問題も起こらないが、それが破綻した際には深刻な状態を示すことはけっして少なくない。 この前、ボクのところに来た心理士がいて、知能検査のデータだけボクに見せて、「 ちょっと相談があるんですよ 」って。「 この検査のデコボコを見て、やっぱり発達障碍ですよね、やっぱりどっかおかしいですよね 」とか、そういう感じで言うわけですね。
しかも、自閉症とか発達障碍とひとくくりにしてみても、
わたしが、自閉症の子どもたちに それは1995年頃のことです。 わたしが具体的な関心を持ち始めた時期というのは、 田中恒夫、石井哲夫、小林隆児、こうした方たちの療育や臨床、研究との出会いは、わたしのカウンセリング観を支えているものでもあります。 しかし、その頃は、自閉症や発達障碍の子ども・人たちは、 その後、支援法が制定され、各都道府県に発達障碍者支援センターが設置されたり、特別支援の取り組みがされるようになって、「 自閉症 」「 発達障害 」「 アスペルガー 」という言葉が、世の中に浸透するようになりました。 しかし、いまだ自閉症や発達障碍が、人々に理解されているとは云い難い状態です。親御さんのご苦労もあります。
ドナ・ウィリアムズはご存じのように、
・ ・ ・ 自閉症者の成長を願ってこちらが向かっていったとしても、まず最初に、必ずシッペ返しをくらいます。非常に頑固な抵抗にあうのです。成長することは苦しいことだから、です。発達上のさまざまな乱れを抱えながら、おびえながら生きている人間にとっては、なおさらです。 ではどうしたらよいのか。わたしは「 誘う 」というやり方がいいのではないかと思います。「 誘う 」ことがうまくいかないなら、励ますのがいいと、わたしは思います。でもその場合は、自閉症者を断崖の上に引っ張っていくのだと、覚悟して欲しいのです。そして、その断崖の光景を充分に想像して欲しいのです。 目のくらむような谷底は、たとえあなたには見えなくても、自閉症者にははっきりと見えているのですから。だから、もしあなたがただ優しく「・ ・ ・ ・してね(please)」と言うだけなら、自閉症者は決してあなたに連いては行かないでしょう。よそ見をしたり騒いだり、暴れたりするだけで、あなたのことを見ようともせず、まして、谷底を飛び越えようとはしないでしょう。 わたしの言う励ましとは、粘り強い、断固とした励ましです。たとえ自分には見えなくても、そこに谷底が口をあけていることを知っていると、伝えることです。そして自閉症者の世界に、こちらから入ってゆこうと試みることです。わたしは頑張っているのだから、あなたはわたしを信頼して大丈夫なのよ、と伝えるのです。 強制するというやり方は、わたしはあまり賛成できません。実際には何も変っていないのに、あたかも成長したり克服したかのような「 ふり 」を、させるだけですらか。それはちょうど、谷底を飛び越えてはいないのに、飛び越えたふりをするのと同じです。
軽度な発達障害を持つ人たちの多くは 生まれ持っての気質を周囲の人たちから理解されず、 ことに( テストの善し悪しは別にして )知的な面での遅れのない子たちは、先生やクラスメートから、時折なんなんだろう、と不思議に思われることはあっても、そのまま流されてしまうことになります。
そのため、不安になって、担任の先生や学校に相談したり、 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ |
|||
|
|||
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ |
|||
|
|